人生を振り回されないために

OnamiYuki | 28 April, 2024


          
            人生を振り回されないために

こちらの記事では、主催している「暮らしのスコレ」、4月のヨガ哲学対談を終えて感じていることをまとめています。

 

言葉は快・不快を生み出す

オリエンテーションで、「私たちは、他者の言葉を生きるのをやめて、自分の“言葉”を生きなければならない」という話をしました(詳しくはこちらの記事を)。

その言葉によせて、ヨガ哲学を担当しているちひろさんが、「自分の言葉を生きる」ということについて、ヨガ哲学的解釈をお話ししてくれました。

ちひろさんによると「言葉とは、その言葉が発せられた瞬間にスッカ(快)、そしてドゥッカ(不快)を生み出す」ものなのだそうです。

例えば、「すごいね」と褒められると、嬉しい気持ちになったり、誇らしい気持ちになったりといった、スッカ(快)が生まれます。

逆に、「変なの」と否定されたり、「こうじゃなきゃダメだよ」みたく強制的な言葉をかけられると、私たちは傷ついたり、落ち込んだりといった、ドゥッカ(不快)が生まれます。

 

事実だけを捉えると、スッカにもドゥッカにもならない

私は子どものころから背が高かったので、「背が高いね」「大きいね」「でか!」とか、ほんとーーーによく言われてきました。それに伴い、巨神兵とか、トッポとか、でかなみとか、宇宙人とか、いろんなあだ名がつけられてきました。

こう文字にしてみると、なかなか強烈なあだ名だなぁと我ながら思いますが笑、一方で、よくテレビで、背の高いモデルさんなんかが話しているような「小さいころから高身長がコンプレックスで…」という感覚が、どうも私にはなかったんです。というのも、「でっけーー!男かよ!」と男子にバカにされても、宇宙人というあだ名がつけられても、「まぁ本当に背高いしなぁ」とか「確かにそう見えるかもなぁ」くらいにしか思いませんでした。

逆に「背が高くて素敵ですね」と褒められても、とくに嬉しいといった感覚もありませんでした。両親ともに高身長だから、私も自然と背が高いだけであって、褒められるようなことでもないなぁと(もちろん、相手がそうやって好意を示してくれたことに対して、感謝の気持ちはあります)。

 

自分の解釈が、スッカやドゥッカを生む

私が「面白いなぁ」と思うのは、「大きいね!」という言葉に対して、それを「嬉しい」と感じる人もいれば、「なにか不快なことを言われた」と受け取る人もいれば、私のように「とくになんとも思わない」と単なる事実として捉える人もいるんだということです。

ではどうして、同じ言葉でも、スッカにもなったり、ドゥッカにもなったり、そのどちらにもならない、ということが起こるのでしょうか?

それは、その言葉に対して、自分がどういう意味づけをしているか、ということが関係しています。自分の意味づけによって、その言葉がスッカになったり、ドゥッカになったりする。「背が高い」ということに対して、「それは素敵なことだ」というふうな意味づけをしていれば、その言葉はスッカになるし、逆に、「背が高いのは女性らしくない、可愛くない」というような意味づけをしていると、その言葉はドゥッカになります。

私の場合は、その言葉になんの意味づけもしていなかった、「背が高い」ということはただの事実に過ぎず、自分を規定しているものではない、という感覚だったのだと思います。「背が高くて男みたい」と言われても、「その人はそう思うんだ、へぇ」と事実だけを見ているので、とくに快楽にもならなければ、不快にもならないのです。

他者に与えられた言葉によってスッカやドゥッカが生まれているのではなくて、その言葉を自分がどう受け取ったかによって、自分自身がスッカやドゥッカを生み出しているということです。

 

スッカがよいわけでもない

私たちはなるべくドゥッカは避けたいし、人に与えないようにしたい、と思うものです。でも、全部スッカになればいいのかといえば、そういうわけでもありません。

ヨガ哲学には、良い・悪いは完全に同時に、同量生まれているという考えがあります。スッカが生まれるとき、それと同時に、同量のドゥッカが生まれているし、逆に、ドゥッカが生まれるとき、それと同時に、同量のスッカが生まれている、ということです。

私が小学1年生のときのことです。学校ではじめてもらってきた通知表に、担任の先生がこう書いてくれていました。

「うきちゃんは、とても頑張り屋さんです。」

私は、それがとても嬉しかったんです。その言葉が、とてつもなく大きなスッカを私に与えてくれたのだと思います。「私って、頑張り屋さんというふうに評価されているんだ」と認識した私は、頑張り屋さんでいれば、褒めてもらえるんだ、ということを学びました。

そしていつしか、私は頑張り屋さんでいることに執着するようになりました。頑張り屋さんでないと、褒めてもらえない。認めてもらえない。頑張り屋さんでない私には、価値がない。もっと頑張らないと。もっと頑張ってまわりに勝たないと。そうやって必要以上に、自分を犠牲にしてまで頑張るようになりました。

まさにスッカがドゥッカを生み出した出来事だったなぁと思います。ちなみに、褒めた先生が悪い、という話ではなく、あくまでこれは「頑張り屋さん」という言葉に執着した私自身の問題です(その担任の先生は、学校嫌いだった私が、唯一いまでも好きな先生です)。

 

元をたどれば、同じもの

ちひろさんは「スッカとドゥッカは、一枚のコインのようなもの」と言います。ある一方から見たらオモテであり、反対から見たらウラであるけれど、どちらから見ても、同じコインであることには変わりはないということです。

良いも悪いも、それぞれ別々に存在しているのではなくて、ある面から見れば良いように見えるし、別の面から見れば悪いようにも受け取れる。でも元をたどれば同じもの。結局自分が、物事をどちら側から見ているかという話なのです。

これはスッカだ、これはドゥッカだ、と振り回されるのではなく、「自分はいま物事のどんな面を見ているのか」「その裏側にはなにがあるのか」を想像することが大切なのだと思います。

 

自分の言葉を生きる、とは

私が思うに、他者からの期待・評価といった「他者の言葉」を生きているうちは、スッカ・ドゥッカに振り回される生き方になってしまいます。

ここで大切なのは、私たちはなんのために生まれてきたのか、ということです。いまその答えが明確ではないにしても、少なくとも、快・不快に振り回されるために生まれてきたのではない、それは人生の目的ではないのだということに、その都度気づけるようになりたいなぁと思います。

「自分は本当はどう感じているんだろう」「自分は本当はなにを大切にしたいんだろう」という問いとともに、「自分の言葉」を生きるようになれば、他者の言葉によって、スッカ・ドゥッカが生まれることはありません。生まれることがないので、振り回されることもありません。

そういう土台ができてはじめて、自分の生命エネルギーを、他者の言葉に翻弄され、消耗することなく、自分の本来の目的のために使えるようになるのです。

 

ドゥッカを消そうとするのは、無駄な努力

少し乱暴な言い方で申し訳ないのですが、ドゥッカを消そうとするのは、無駄な努力だなぁと思います。

コインのウラだけをなくすことが不可能であるように、ドゥッカだけをなくすことも不可能なのです。ドゥッカを無くすのは、そのコインという存在自体をなくすということ。

例えば、ずっと欲しかった高価なモノを買うと、普通の買い物では得られないような幸福感(スッカ)を感じると思います。だからこそ、それが必要でなくなったとき、「買ったとき高かったのに」「もったいない」と執着が生まれ、手放すときの苦痛(ドゥッカ)がとてつもなく大きなものとなります。

逆に、自分のやりたいことを我慢して、たくさんのことを犠牲にして、辛くても自分を厳しく律して努力したからこそ(ドゥッカ)、なにかに成功したときの喜び(スッカ)というのは、何倍にも膨れ上がるのです。(誰かの成功を妬んでしまうとき、私たちは彼/彼女たちのドゥッカに想いを馳せられるといいなと思います)

結婚や育児、仕事、勉強、健康、娯楽、人との関係…私たちの人生や、日常を振り返ってみると、スッカ・ドゥッカが等しく存在していることに、たくさん気づけるはずです。

誰だって、なるべく嫌な思いをせずに生きていきたいというのが本当のところだと思います。でも人生って、そういうわけにはいかないじゃないですか。だからこそ、ドゥッカだけに注目してそこに溺れそうになるとき、必ず存在しているスッカに目を向けて、スッカもドゥッカもともに抱きしめられる自分でありたいなと思います。

スッカがあって、ドゥッカがあるから、この世界が成り立っているんだということを、私たちが自分自身のなかに見つけられたとき、完全に満たされる状態である・なしに関わらず、私たちは本当の意味で、満ちていくのではないでしょうか。

 

参加者の感想

子どもに対して「褒める」ことで、呪いの言葉ではないけれど、子どもがそれに囚われてしまうということがあるのではないかと感じた。自分の「褒める」という行動が、子どもになにか植え付けてしまっていないか、意識したいし、夫ともこのことについて話してみたいな、と感じました。

幼少期に言われてショックだったことや、自分やまわりが褒められた言葉って、大人になったいまでも、自分のなかにたくさん残っているということに気がついた。自分の暮らしにあるスッカとドゥッカを意識して見つけていきたいと思った。

子育てのなかで、子どもを褒めることってたくさんあるけれど、子どもが「その言葉がほしいからその行動をする」みたいにはなってほしくないと思う反面、褒めることが習慣になってしまっている部分もあるので、意識しながら、いい方向に持っていきたいと思う。

はじめてヨガ哲学というものに触れたが、具体例があってすごくわかりやすかった。高いものを買ったときにすごく嬉しかったけど、手放す苦しみが生まれるというのはとてもわかる!対談後のヨガは本当に短時間だったけれど、自分の内側ってこんなに静かで穏やかだったんだ!と気づくことができて嬉しかった。

対談後のヨガでは、すでに自分のスッカとドゥッカがせめぎ合っているのを感じた。頭を空っぽにした方がいいとわかりつつも、ちひろさんのようにちゃんとできているか、自分がありたい状態への執着がかなりあるということに気がついた。そんなとき、ちひろさんが「その状態であることをそのまま受け取りましょう」と誘導してくれたので、このぐるぐるしている状態が「いまの自分」そのままなんだ、と受け入れることができた。

自分も身長が高くてコンプレックスだったので、うきさんが背が高いことを全然コンプレックスに感じたことがないと聞いて驚いた。「背が高い=女らしくない」みたいな、よくないイメージを持っていたのは自分だったんだと気づいて、スッと心が軽くなった。うきさんの考え方は、いつも私の固定概念を壊してくれるので、最高だな、清々しいなと思っています。

家がスッキリと片付くと、散らかってもイライラしないというお話があり、きっと心の中にホーム(心地よさをもたらす還るところ)ができたからかなーと思いました。あの状態に戻ればいいんだ、ということがわかっているのは心の安定になるのではないでしょうか。私も自分の役割の中で、関わり合う人の心と体のホームをつくるお手伝いをしていきたいと思いました。


来月は「サティア(真実の願い)」について。お楽しみに!

 

2024年4月27日

暮らしのスコレ|うき

(暮らしのスコレ・2期生は定員に達しましたため、募集を締め切らせていただきました。3期生の募集は、2025年1月ごろを予定しています。暮らしのスコレについて、詳しくはこちら