「わかる」とはどういうことか

うき | 03 May, 2024


          
            「わかる」とはどういうことか

暮らしのスコレでは、毎月サットサンガを開催しています(片づけ・ベーシックコース限定)。

「サットサンガ」
はじめて聞いた、という方もいるかもしれません。

暮らしのスコレでヨガ哲学を教えてくれているちひろさんによると、サットサンガには、サンスクリット語で真実のための集まりという意味があるのだそうです。

私はありがたいことに、日々たくさんの方とお話する機会をいただいています。ときどき、お話ししている途中、ハッとしたような感じで「ああ、なんか、こういう会話ってはじめてかも」と言っていただくことがあります。

「毎日家族と、職場で、そして友だちとコミュニケーションをとっているけれど、こういうことって話してこなかったかもしれない」と。

それを聞いたときに、なんというか、まだうまく言葉にはできていないんだけれど、すごく大切な“なにか”について話せる時間が、私たちの人生にはもっと必要なのかも、と感じました。まだわからなくていい、きれいにまとまっていなくてもいい。ぽつりぽつり、話しながら紐解いていくような対話。真理というとちょっと大袈裟に感じるかもしれないけれど、「大切なこと」について、スコレのメンバー何人かが集い、まっさらな状態で話す時間です。

 

「わかる」とは「変わる」こと

暮らしのスコレには、北海道から鹿児島まで、全国各地からいろいろな方が参加してくださっています。そのため、オンラインでもサットサンガを開催しています。

オンライン開催のときには、今回はどんなことについてみんなと話したいか、いわゆる「テーマ」を用意しています。

4月のテーマは「暮らしのスコレに参加して、どんな変化がありましたか?」

すでにこの4月だけでも、いろんなことをお伝えしてきました。そのことを「わかる」とは、どういうことでしょうか。どうなれば、自分が受け取ったことを、本当の意味で「わかった」といえるのでしょうか。

私は「わかる」とはつまり、「変わる」ことだと思っています。

例えば、子どもが不注意でコップを倒してしまい、中身がこぼれてしまったとします。私が「次はコップを倒さないように気をつけてね」と声をかけると、子どもは「わかった」と言います。でもやっぱり、数分後に子どもはまた中身をこぼしてしまいます。

こんなとき私たちは、子どもは「わかった」と言ったけれど、「全然わかっていないじゃない」と感じるのではないでしょうか。

どうしてそう思うのでしょう。それは、相手の行動が「変わっていない」からです。本当にわかっているのなら、行動が変わるはず。でも、変わってない。だから「全然わかっていないじゃない」と感じるのです。

 

「わかっているのにできない」は、わかってなんかない

わかっちゃいるけどできないんだよなぁ、と感じること、ありませんか?

イライラしても仕方がないってわかっているけれど…
片づけた方がいいとはわかっているけれど…
貯金した方がいいとわかっているけれど…

「わかってはいるけれど」と言っている時点で、本当にはわかっていないのです。本当にわかっているのなら、必ず「変わる」はずだからです。

もし、自分がなにか病気をしたりして、「健康の大切さ」と身に沁みて「わかった」のであれば、食事を身体に優しいものにしたり、身体を動かす習慣をつけたり、なんかしら考え方や行動を「変える」はずですよね?「変わって」はじめて、私たちは本当の意味で「健康の大切さ」が「わかった」のだといえると思います。

そう考えると、私たちにはまだまだ「わかっていない」ことが、たくさんありそうです。

 

「暮らしのスコレに参加をして、どんな変化がありましたか?」

このように「わかる」ということを深く体得するためには、自分の「変化」に気づくことが大切です。とくに、暮らしのスコレ・2期がはじまって間もないこの時期は、「小さな変化」に目を向けられるようになりたいのです。

小さいけれど、ちゃんと変われている。それは自分が、確実になにかを理解してきている証拠なのだと。

参加してくださったメンバーさんのシェアを聞いて感じたことは、みなさん共通して「自分への問いかけ」が生まれてきているということです。

「それは本当にやりたいこと?」
「他人の期待に応えようとしているだけじゃない?」
「とはいえできていることは?」
「いま私、子どもにラベリングしなかった?」
「相手の願いはなんなのだろう」
「評価にならない声かけには、どんなものがあるだろう」

こういった、自分の内面で生まれた「問い」に対して、「それって本当に私の言葉?どこかで誰かが言っていた言葉じゃない?」と、さらに深く、言葉を編み出そうとしていく。

 

自分の言葉を生きる

実は、この「問い」から生まれる営み、「これは本当に自分の声なんだっけ?」という営み自体が「自分の言葉を生きる」ということなのです。オリエンテーションのときはみなさん「自分の言葉がわからない、難しい!」と言っていたけれど、実はもうちゃんとできているのです。

「自分の言葉を生きる」って、必ずしも明確な答えを出せているということではなく、その「過程」だったり、「方向」のことなのだと、理解してもいいかもしれません。

(ちなみに仏教では「答えなんてものはない」といわれています。「答えを出さないといけない」と執着していませんか?)

もちろん「自分はどうしたいんだっけ?」という問いから、「これを大切にしたいのかも」と気づくことができ、さらに、実際にそう行動できる自分になることが、最終的な目標ではあります。

 

「問いかけ」こそ、スコレ=余白

「余白のある暮らし」って、時間に余裕があるとか、広い家に住んでいるとかは、まったく関係ないんですよね。忙しくても、狭い家に住んでいても、心の余裕を保てる生き方のことを、「余白のある暮らし」というのです。

心に余裕がある状態、つまり、心に十分なスペースがある状態とはどういうことかというと、ひとつは「問いかける余裕がある」ということです。

日々、何気なく流してしまっている行動や、いつもなら振り回されて終わる自分の感情について、「それってどういうこと?」「本当はどうしたいの?」と聴けるようになること。それはもう、スコレ=余白の時間が生まれている証です。

そこから、「本当はこうしたいんだ」と気づく度、「そのためにはどうしたらいいんだろう」と考える度、それを叶えるために試行錯誤しながら行動する度に、心のスコレ(余白)がぐんぐん広がっていくのを体感するはずです。

心は目に見えないし、物質として存在しないからこそ、無限に大きくなれるのです。

 

リアルでのサットサンガは、自然発生的

お近くにお住まいの方には、実際にわが家にお越しいただいてサットサンガを開催することもあります。リアルでの開催のときは、とくにトークテーマもなく、「そのときに生まれる目的のない会話」を大切にしています。

ごはんを食べながら、最近起きたことや、迷っていることについて話すこともあれば、「あのドラマが面白かった!」と盛り上がることもあります。

なにを話すかというよりも、余白のある場所・人・時間のなかで過ごすことで、どんな気持ち・感覚になるかを体験してほしいなぁと思っています。「余白、余白」と言葉ではいうけれど、実際にその中に留まってみて、どう感じるのか、自分の内側でなにが起こるのかを知っている人は、あんまりいないのではないかと思います。実際にここにいるからこそ、感じられることを受け取ってもらえれば、話すことはなんだっていい。

実際にわが家に来てくれた方は、「帰るころには、自分の人相が変わった気がする」「長い時間いたはずなのに、一瞬の時間だった」「帰り道、すっと心が整っているのを感じ、足取りも軽くなっていた」「帰宅後、余裕を持って子どもに接することができた」など、それぞれいろんなことを感じ取っていただけているようです。

 

暮らしのスコレらしさ

サットサンガの時間は、暮らしのスコレの原点のようなものであり、さまざまなコンテンツの中でももっとも「暮らしのスコレらしい」時間だなぁと思っています。

私たちは常に、なにかの「役割」を演じながら生きています。娘として、妻として、嫁として、彼女として、お姉ちゃんとして、妹として、先輩として、同僚として、部下として、友だちとして、大人として、弱い自分といて、強すぎる自分として…。

たくさんの役割を抱え込むなか、「ありのままでいい」という言葉が溢れるこの現代において、ひとりの人間としての「私」が、どう感じているのか、どうしたいのかなんて、簡単に後回しにできてしまいます。

人は「自分」を生きているとき、なにを感じ、そこからどんな想いが<自然と>生まれるのか。サットサンガを通して、私はそのことを共有していきたい。あたまや言葉だけでなく、身体感覚として「わかる」を体験してもらえたら嬉しいなぁと思います。

2024年5月3日

暮らしのスコレ|うき

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