「ノブ子さんのお孫さんね。いまおばあちゃんに連絡するね。」
祖母の暮らす自立型老人ホームを訪れると、施設の方が、私の顔を見るなりそう声をかけてくれた。
祖母がこの施設に暮らしはじめてから、毎月のように祖母に会いにきているからか、職員さんも、私を覚えてくれたらしい。私の方も、職員さんの顔と名前が、だんだんと一致するようになってきた。
面会の手続きなどを済ませていると、私の到着を知った祖母が、ゆっくりと入り口まで歩いてやってくる。そのまま一緒にランチに出かけるのが、私たちのいつもの流れだ。
「ノブ子さん、気をつけて行ってきてね」と職員の方に見送られ、私たちはゆっくりと車に向かい、祖母はゆっくりゆっくり、後部座席に乗り込む。それを確認して、私は優しく、扉を閉める。
「もう、なんでもゆっくりにしかできないし、車の扉を閉めるのも一苦労だし、いやになっちゃう」と祖母は言う。もう急ぐ必要もないんだから、いいんだよ、と声をかけたけれど、本当は、祖母の“ゆっくり”のペースが、私には心地がよくて、結構好きだ。
「今日のお店はタクシーの運転手さんにおすすめされて、はじめて来てみることにしたの」と、祖母に道を案内されて到着したのは、一軒家のイタリアンレストランだった。
店内に入ると、窓際にある日当たりのよいテーブルに案内された。席に着くなりスタッフの女性が、ランチメニューの説明をしてくれた。彼女が去ったあと、祖母が小さな声で「うきちゃん、いまの説明、半分くらいしか分からなかったから、教えてくれる?」と言うので、私たちは一緒にメニューを覗きながら、ゆっくりゆっくりランチを選んだ。かくいう私も、ばーっと説明されると理解が追いつかないタイプなので、祖母の気持ちはよくわかる。お店の方の説明がよくなかったとかそういうことではなくて(逆に、終始親切でとても心地がよかった)、たぶん、世の中の“ふつう”のペースが、祖母と私にとっては高速なのだ。
ランチはどれもおいしくて、私たちは「美味しいねぇ」と言いながら、ゆっくりゆっくり味わった。祖母はまだまだしっかり食べられるので「デザートも食べたい」「コーヒーをおかわりしたい」と本当によく食べ、食事を終えるころには、私たちが最後のお客さんになっていた。そういえば私は、家族とのごはんでも、学校の給食でも、食べ終わるのはいつも最後だったことを思い出した。
祖母は「ちゃんと作っている料理の味だ」と、このレストランをとても気に入ったようだった。また来ようね、と私たちは約束して、転ばないように気をつけながら、お店をあとにした。
ランチを終えたら、スーパーやドラッグストアに買い物に行くのがいつもの流れだ。スーパーに入るたび、ドラッグストアに入るたび、祖母が「なにを買おうとしてたんだっけ?」と言うのもいつもの流れ。私もよく、なにを買いにきたのか忘れるので、紙にメモするようにしているよ、と祖母にアドバイスすると、「そうなんだけど、そのメモをどこに置いたのかも忘れるのよ笑」とのこと。そりゃあ仕方ないや笑、まぁ歩いているうちに思い出すでしょう、と、店内をぶらぶら、ゆっくりゆっくり歩くことにした。なんてったって、祖母も私も、時間だけはたんまりある。
なにを買いたいのかわからなかったおかげで、ぶらぶら歩きながら、たくさんの会話が生まれた。いつもこの梅干しを買うよねぇ。あれ、前より高くなってるね。昔これ好きだったなぁ。最近はなんでも高いよね。いつもどれを使っているの?前は売ってたのに今日はないみたいだね。この歯磨き粉は10%増量中だって、ラッキーだね。いまはこんなのも売ってるんだね。
なにを買いたいのかがわかっていたら、ただTODOをこなすように買い物をしていただろう。でもその時間の使い方は、私が心から求めている過ごし方ではない。
買い物を終え、私たちは施設に戻った。買ったモノたちを祖母の自室に収納して、来月に会う日にちを決めた。疲れただろうから、お見送りは大丈夫だよ、と伝えたのだけれど、祖母は再び外まで出てきて、私の車が見えなくなるまで見送ってくれた。
帰り道。私が毎月、東京から東北へ戻り、祖母に会いに施設に通っていると言うと、「祖母孝行な孫」のように思われるのだけれど、そうじゃないんだよなぁ、と改めて思う。
ただただ、私にとって、大切な時間だから。
大切な時間を、大切にすることが、私にとってのしあわせだから。
そんなシンプルなこと。それで充分なんだということ。
帰路の山中、陽が沈むのを眺めながら、私の心も静まり、満ちてゆくのを感じる。